词条 | 松村宗棍 |
释义 | 松村宗棍(1809年-1899年)是活跃於琉球王国第二尚氏王朝末期和日本冲绳县时期的唐手武术家。他被後世追认为琉球王国时代最伟大的武术家,有「武士松村」、「琉球的宫本武藏」之称。松村宗棍号云勇,唐名武成达,位阶筑登之亲云上,因此在第二尚氏王朝时期,他被称作松村筑登之亲云上宗棍。武成达的先祖是第一尚氏王朝国王尚泰久的第五子尚武(江洲按司)的後代。松村家则是其第九世武扬宗(嘉阳亲云上宗胜)次子武得良(松村里之子亲云上宗应)的後裔。 松村宗棍幼年即具有很高的武术天赋,并拜佐久川宽贺学习唐手,在武术上逐渐崭露头角。成年後,松村宗棍前往日本萨摩藩在琉球馆任职。在此期间,他拜师学艺,从伊集院弥七郎处学得了示现流剑术,获得「云辉四段」的称号,成为一名剑术家。1836年,他追随师父佐久川宽贺前往清朝,拜京师王宫的武术教官违伯为师,学习中国武术。约一年後,武成达尽得其妙归国。 归国後,松村宗棍当任琉球王宫的御侧守役(要人警护职),历仕尚灝王、尚育王、尚泰王三朝。 琉球处分後,松村宗棍在首里崎山町的王家别邸御茶屋御殿教授唐手。1899年,松村宗棍在首里逝世,享年91岁,葬於那霸市古岛。著有《松村宗棍遗训》。 松村宗棍的弟子多为空手道名人,其中包括了牧志朝忠、安里安恒、糸洲安恒、知花朝章、伊志岭某、多和田某、本部朝勇和本部朝基兄弟、屋部宪通、喜屋武朝扶(喜屋武朝德之父)、桑江良正、义村朝义等人。 松村宗棍遗训武术稽古の真味をしらずんばあるべからず。依て覚悟の程申し谕し候间、得と吟味致すべく候。 さて、文武の道は同一の理なり。文武共に其の道三つ有。 文道に三つと申すは词章の学、训诂の学、儒者の学と申候。 词章の学と申すは、组语言を缀绢し文辞を造作して科名爵禄の计を求め候迄にて、训诂の学は、経书の义理を见究め人を教ふる而巳の心得にて道に通ずる事情入れ申さず候。右の両学は只文芸の誉を得候迄にて、正当の学问とは申し难く候。儒者の学は、道に通じて物を格知を致し、意を诚にし、心を正しく推して以って家を斉へ、国を治め天下を平にするに至り、是れ正当の学问にて儒者の学にて候。 武道に三つとは学士の武芸、名目の武芸、武道の武芸有り。 学士の武芸は、头に稽古の仕様相替り、成熟の心入り薄く、手数计り踊の様にて相成り、戦守の法罢り成らず、妇人同人にて候。 名目の武芸は、実行之れ无く方々去来致し、胜つ事计り申し致し、争论或いは人を害し、或いは身を伤い、事に依りては亲兄弟にも耻辱を与え候。 武道の武芸は、放心致さず工夫を以って成就致し、己が静を以って敌の哗を待ち、敌の心を夺って相胜ち候。成熟相募り候て妙微相発し、万事相出来候共桡惑もなし、乱哗もなし。忠孝の场に於て、猛虎の威鷲、鸟の早目自然と発して、如何なる敌人も打修め候。 夫れ武は暴を禁じ、兵をおさ(左は口+耳、右は戈)め、人を保ち、功を定め、民を安んじ、众を和し、财を豊かにすと。是れ武の七徳と申し、圣人も称美し呉れ候段、书に相见え候。されば、文武の道一理にて候间、学士、名目の武芸は无用にして、武道の武芸相嗜み候て、机を见て変に応じ、以って镇める可き物をと存じ候间、右の心得にて稽古致し然る可き哉、と存じ寄るも候はば、腹蔵无く申し闻く可く希ましく候。 以上 松村武长 五月十三日 桑江贤弟 |
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