词条 | 奉西海道节度使之作 |
释义 | 奉西海道节度使之作作者:藤原宇合 国籍:日本 日语假名:ふじわら の うまかい 生卒年月:持统天皇8年(694年) - 天平9年8月5日(737年9月7日) 诗词内容:往岁东山役, 今年西海行。 行人一生里, 几度倦边兵。 作者简介别名藤原马养。奈良时代公卿。曾任朝廷参议等职。717年(养老元年)被朝廷任命为遣唐副使,渡海赴唐。归国后,参加征伐虾夷之战。他还主持建造难波(今大阪)行宫,在日本古代建筑史上有一定建树。731年(天平三年),任参议,成为朝廷重臣。737年(天平九年)因染流行病而死。 藤原 宇合(ふじわら の うまかい、持统天皇8年(694年) - 天平9年8月5日(737年9月7日))は奈良时代の政治家。藤原不比等の三男。初めは「马养」と名乗るが、遣唐使の副使として入唐後、「宇合」に改めたか。官位は正三位勲二等参议式部卿兼大宰帅。 生涯 霊亀2年716年8月正六位下で遣唐副使に任命。これが史料の初见。翌月従五位下に。养老元年(717年)入唐。翌年10月に帰国。养老3年(719年)正月には正五位下と见え、遣唐副使の功により正五位上となる。同年7月の按察使设置时に、常陆守として安房.上総.下総3国の按察使に任命。养老5年(721年)に四阶进んで正四位上。 神亀元年(724年)4月式部卿で持节大将军に任命され出兵。虾夷の反乱を平定し11月帰还。この功により翌年位阶勲等を进められ従三位勲二等となる。神亀3年(726年)式部卿のまま知造难波宫事。後期难波宫造営の责任者となる。この後天平元年(729年)の长屋王の変时も式部卿として対応。天平4年(732年)には、参议.式部卿として西海道节度使となる。この时の诗が『懐风藻』にあり、高桥虫麻吕の见送る歌が『万叶集』に残る。なお、宝亀11年(780年)に、宇合の时の警固式を用いるようにとの命令が出ている。 天平9年(737年)8月5日参议式部卿兼大宰帅正三位で没。长男藤原広嗣が反乱を起こすのはこれから3年後のこと。藤原式家の祖。 系谱 父:藤原不比等 母:苏我娼子(苏我连子の娘) 妻:石上麻吕の娘 长男:藤原広嗣(?-740) 次男:藤原良継(716-777) 妻:高桥阿祢娘(高桥笠朝臣の娘) 三男:藤原清成 妻:小治田功麿男牛养女 四男:藤原田麻吕(722-783) 妻:久米若女(久米奈保麻吕の娘?) 六男:藤原百川(732-779) 妻:佐伯家主娘(佐伯徳麻吕の娘) 七男:藤原蔵下麻吕(733-775) 生母不明 五男:藤原纲手(?-740) 女子:藤原鱼名室 女子:藤原巨势麻吕室 女子:藤原扫子 - 藤原纲継母? |
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